大乗院寺社雑事記
小田原巡礼
享徳四年四月四日
成身院中川・西小田原・東﹅﹅﹅・般若寺等巡礼、安位寺殿・東南院殿・予同道申了、於中川テ予一献沙汰了
1455年4月4日
中川寺成身院、西小田原山浄瑠璃寺、東小田原山随願寺、般若寺などを巡礼した。安位寺殿と東南院殿が同道すると事前に知らせてあった。中川寺であらかじめ一献もてなされた。
中川寺焼亡
文明十三年七月十五日
近日世間之浮說共無是非、山內衆筒井以下可入國中支度云々、大ニ不審事也、今度和州面々沒落ハ、畠山右衛門佐之威勢也、各不及一合戰退散了、今何事ニ彼威勢可劣哉、若令出頭者尚々可追失基也、及此六七十日雜說ニ、右衛門佐逝去之由申沙汰、如此事存實儀存立歟、不可然事也、
1481年7月15日
近頃の世間の噂はしかたのないことだ。山内氏方の筒井氏以下、大和国の中へ入るべく、準備しているという。大いにいぶかしいことである。この度の大和国の面々の没落は畠山義就の勢いが強いためである。みな一合戦にもおよばず退散した。今、あの勢いは何に劣るだろうか。もし抜きん出た者がそれでもなお追いつこうとしたとして、もはや基盤が失われている。それからこの六七十日のとりとめもない噂に、畠山義就が逝去したというものがある。このようなことが事実に基づいているだろうか。あり得ないことである。
文明十三年七月十九日
明日筒井順尊・箸尾爲國・十市遠相・成身院順盛等、率人勢可入自分之館之由必定旨云々、多武峯寺同心合力云々、自明日天一天上也、且如何、不得其意者也、自國他國相語之云々、
1481年7月19日
明日、筒井順尊・箸尾為国・十市遠相・成身院順盛らが、人を率いて自分の館に入ろうとしているのは確実という。多武峯寺が味方し加勢しているという。明日より方角に禁忌のない天一天上である。はたしてどうなるだろうか。この意味が読めない。大和国でも他の国でもこのことを噂している。
文明十三年七月廿日 天一天上・近大將軍 西・癸巳・金剛峯日、
筒井出張菅田、十市出張田原本、箸尾出張法貴寺幷結崎、成身院移住福住城、一切自他不及合戰者也、
1481年7月20日
筒井氏が菅田へ出陣した。十市氏が田原本に出陣した。箸尾氏が法貴寺と結崎に出陣した。成身院氏は福住へ移った。いずれも合戦には及ばなかった。
文明十三年七月廿一日 今曉大雨下、日中晴、夕部雨下、
今曉中川寺發向、本堂計相殘悉以燒拂之、堤手幷古市手進發了、彼寺法師四人被打煞了、一山悉以自昨日成身院ニ相伴.出陣福住之留守也、不便次第也、一山滅亡可歎々々、寺号根本成身院云々、一乗院殿御寺也、引入衆彼寺法師無量壽院・古市披官、平淸水源さ衛門・簀川云々、
1481年7月21日 明け方大雨降る、日中晴れ、夕べ雨降る
明け方、中川寺に軍勢が向かい、本堂ばかりを残してことごとく焼き払った。堤の手の者ならびに古市の手の者が進軍した。この寺の僧侶四人が打ち殺された。一山ことごとく昨日より成身院氏に伴い福住へ出陣しており、ちょうど留守であった。気の毒なことである。一山滅亡とはつくづく嘆かわしい。寺号のおおもとは成身院という。一乗院殿の末寺である。軍勢を引き入れたのはこの寺の僧侶、無量寿院(古市の家臣)と平清水源さ衛門(須川)という。
※「無量寿院」が中川寺の子院の一つ「無量寿院」を指すのか、僧侶の名前なのか読み取れず。
文明十三年七月廿三日 大雨下、下食日、
今日戒重責也、寄衆筒井・箸尾・十市各被追散了、多武峯勢共同被追散了、兩方大死也、在々所々燒亡、今朝合戰也、今夕古市發向福住城了、此間筒井居住所也、
1481年7月23日 大雨降る、下食日(悪日)
今日の戒は重責である。近づいて来た筒井・箸尾・十市、みな追い散らされた。多武峯勢らも同じく追い散らされた。両方に多くの死者が出た。あちこちが燃えた。今朝合戦があった。夕方古市氏が福住城へ軍勢を差し向けた。この間筒井氏が居住していたところである。
文明十三年七月廿五日
中川寺竹木拂之、自今市城沙汰也、在家以下燒拂云々、
中川寺竹木拂之、自古市沙汰也云々、
1481年7月25日
中川寺の竹木を切り払った。今市からの指示である。民家を焼き払ったという。
中川寺の竹木を切り払った。古市からの指示だという。
文明十三年七月廿七日
中川竹木今市拂之、
1481年7月27日
中ノ川の竹木を今市が切り払った。
文明十三年七月廿八日
中川寺例時堂供米事、彼寺如此之間可公納之由、召仰勾田庄沙汰人了、
1481年7月28日
中川寺の例時堂の供米について。この寺に前回同様納めるよう、勾田庄(現在の天理市あたり)の荘官を呼んで命じた。
文明十三年八月二日
中川寺竹木此間連日切之、今日同云々、相殘本堂以下猶以無正躰云々、
1481年8月2日
中川寺の竹木をこのところ連日切っている。今日も同じという。残った本堂以下、今なお本来の姿にはないという。
中川寺勧進興行
文明十八年三月廿四日
於平野辻堂可有手猿樂之由云々、京都之者共也、中川寺之勸進也、高矢辻子取立之在々所々ニ札立之、山城之平野之由書之、自衆中就高矢至問答、彼平野事ハ大和之内也、山城之由申条不得其意、不及覺悟之由申、即在々所々札書改之、只於平野可有猿樂云々、衆中申狀尤事也、自廿二日可有之由也、但自京都不下向之間于今無之、不届事歟
1486年3月24日
平野辻堂で猿楽の興行があるだろうとかいう話。京都のものどものことだ。中川寺の勧進である。高矢の横町がこれを取り上げてあちこちに札を立てた。山城の平野と書いたとのことで、衆徒から高矢に問い合わせがあった。その平野というのは大和国内である。山城のと言うのは同意できかねる。看過できないと言うのだ。そこであちこちの札書きを、ただ「平野で猿楽がある」と書き改めたという。衆徒の言うことはもっともなことだ。22日から始まるということであったが、京都からこちらへ来ることなく、今もまだやっていない。行き届かないことだな。
文明十八年四月八日
於平野辻堂自昨日手猿樂在之云々、京者也、兩寺住侶見物之、甲乙人八銭宛出之云々、大群衆也云々
1486年4月8日
平野の辻堂で昨日から猿楽の興行があったそうだ。京都の者とのことだ。両寺に住む僧侶がこれを見物した。一般人は八銭だったという。大群衆だったようだ。
※縦書き部分をダブルクリックすると横書きに変更できます。もう一度ダブルクリックすると縦書きに戻ります。
関連情報
この作品について
ここでは大乗院寺社雑事記のうち中川寺焼亡に関する記事と、平野(現在の奈良市緑ヶ丘浄水場付近)で開かれた中川寺勧進の猿楽興行に関する記事を紹介しています。