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2016年8月28日(日)木津川市加茂文化財愛護会発行の「文愛会だより」第43号に「整備された中世の浄土式庭園」が掲載されました

  • 浄瑠璃寺佐伯功勝住職による庭園修理の解説です。許可を得てこちらに転載します。

  • (2016年9月23日(金) 午後3時45分17秒 更新)

整備された中世の浄土式庭園

住職 佐伯 功勝

庭園の由緒

 桜や木蓮など、春の花が参道を彩り始めた今年の四月二日、堂前の池を中央で仕切っていた土嚢が撤去され、『特別名勝及史跡浄瑠璃寺庭園保存修理事業』の根幹でもある池泉部分(池の周囲)の整備事業がほぼ完了しました。

 浄瑠璃寺の庭園は、寺に残る記録「浄瑠璃寺流記事」《観応元(一三五○)年編纂・重文》によれば、久安六(一一五○)年興福寺の僧〝恵信〟が入寺し、寺域の境界を定め池を掘り石を立て、伽藍の整備を行ったことから始まり、その七年後の保元二(一一五七)年に堂を池の西岸に移したとあり、この堂が現在も建つ九体阿弥陀堂であることは今回の発掘調査でほぼ確定されています。そして約二十年後の治承二(一一七八)年、京都の一条大宮より三重塔が現在の地に移され、今日目にしている伽藍がほぼ出来上がったと言えます。この頃から鎌倉期にかけて、諸堂の建立、各種法会の厳修等、おそらく浄瑠璃寺の寺勢が特に盛んな頃であっただろうと思わせる記述が続きます。

 庭に限れば元久二(一二○五)年に京都より作庭家・少納言法眼が招かれ、楼門の内と池の周辺に石を立てたとあります。これは山門を入ったすぐ左手、三重塔前石段の登り口南側と閼伽井のすぐ脇に残る立石群のことかと思われます。(もう一箇所、現在は殆ど判りませんが本堂南側にもそれらしき跡が残っています。)これらを補うことにより庭全体が引き締まり一つの形が整ったようです。この頃以降については、発掘調査の過程で通路等を含めいくつかの改変された痕跡は確認されたものの、池の浚渫以外の記録はほぼ残っていません。時代は下り、明治期に入り西洋種の睡蓮が植えられ池一面を覆うように繁殖したようです。昭和四十年代迄をご存知の方にとってはこの睡蓮の印象がかなり強く残っているように感じられます。またこの睡蓮は冬になると葉や茎が沈殿し池底に泥となって堆積して行くため、柄を伸ばした鎌を手に今は沈んでいる舟に乗り、茎を苅り陸地に上げるのが、子供の頃の夏から秋にかけての毎年の仕事でした。

 この庭の姿が大きく変貌するのは昭和五十(一九七五)年のことです。それまでから庭園学の専門家の間では、中島や池周辺の堆積土を除けば平安当初の庭の姿が出現するであろうと言われ、戦後行われた実測調査を基に昭和四十(一九六五)年に名勝及史跡の国の指定を受けていましたが、機が熟し、記録上は応永十七(一四一○)年以来、おそらく五百五十年ぶりであろう大規模な整備とそれに必要な発掘が行われました。それに伴い、中島・東側出島・南岸に州浜(水際に小さな石を並べた浜)が復元され、作庭当初に近い姿となった庭は、浄土式庭園の貴重な作例として、名勝から特別名勝へと指定が格上げされました。

 通常文化財の国による指定は、建造物(堂・塔等)や美術工芸品(彫刻・器等)、絵画、古文書といった範疇に属するものは、重要文化財、国宝と呼びます。しかし庭園の場合は名勝や史跡と言った呼び方となり、その中でも特に優れたもの貴重なものには特別の冠をつけます。当時は日本の三大名園の一つとされる石川県金沢市の兼六園との同時指定で、その後も数カ所指定を受けていますが、それでも総数は全国で三十箇所にも満たないことから、庭園としては非常に貴重な存在と言えます。

 そうして再出発を遂げたこの庭も近年州浜の石の陥没、法面の崩落等が目立つ様になり修復の必要性が感じられる状況となりました。

平成の整備事業

 そこで平成二十二(二○一○)年度より測量・調査を始め、専門家・行政・施主(寺)そして設計・施行の関係者から成る委員会において討議、検討を重ね乍ら、発掘調査の状況や昭和の整備記録等を参考に段階的に修理が進められました。

 池泉部分に限れば、まず従来の姿を踏襲し大きな変更のない中島から着手しました。周囲の州浜の石を一度全てはがし、土台部分の地面を固め直し、再び石を置きました。この土台部分の年度が前回の整備後の経年変化により水中に溶け出し石の陥没の原因となったため、今回は年度に一定の石灰やマグネシュウム等を混ぜた配合土を何種類か事前に試験施行し、その結果を基に作業を進めていただきました。

 この配合土を初め、今回の修理・修復に使用する資材は将来に亘って確保できる原材料を原則とし、化学的な物質を含んだ材料、製品は使用しない方向で進められました。近・現代、特に戦後高度成長期の頃の文化財の修理・修復に化学的な物質を含んだ接着剤等が使用され、結果的に次の修理・修復の障壁となった事象が教訓となっているようです。

 中島以降は、南岸(山門を入った正面方向)東岸(本堂前から見た塔側)、北岸と続き、最後に西岸(本堂前付近)を整備し、現在の姿となりました。

 尚、今回の調査の過程で個人的に〝そうだったのか?〟と思わされたのは、池の水面が作庭以前はかなり広かった点です。初めの方で、「池を掘り…堂を西岸に移した」とも経緯を記しましたが、現在本堂が建つ場所の一部も当初は池の中であり、「池の一部を埋め整え、そこに本堂を移した…」のが事実のようです。また現在のように池を周回できるようになったのは江戸期であり、また本堂前の地面も明治期にかなり嵩上げされ、現在一段下がっている石灯籠が元の高さのようです。他にも閼伽井付近、鎮守跡前、本堂南側等でいくつかの石垣や石組が発掘されましたが、現在はいずれも埋め戻されています。

 こうした整備の過程において、過去の変遷を確認し、可能な部分を作庭当初に近い姿に戻す方向がある一方、現実として続いている日々の寺院としての在り様があり、いくつかの箇所の整備について議論、検討がなされました。例えば本堂前においても当初と思われる州浜の一部が発掘されましたが、それをそのまま復元すると堂前の通路が無くなってしまいます。そこで今後の維持管理の点からも軽自動車が通れる程度の通路と自然の草花が生息する法面を残し、水際に州浜を復元する形をとりました。当初の姿とその後の変遷、そして現在の状況といった長い歴史の流れの中から今表現できる一つの形を導き出すことが出来たと感じています。

 昭和の整備は先代快勝和尚が、今回の平成の整備は私が計画の段階から関わらせていただきました。時代の違いか、昭和の整備は足掛け二年、実質ほぼ一年で一気に進められましたが、今回は現在で約六年、さらに周辺整備の完了までには一年以上かかる見込みです。

 整備着工時の現状にも違いがあり単純に比較できるものではありませんが、前回の整備があったからこそ考える(必要のある)点が多々あり、それが今回の期間の長さの一因であり、一つの必然とも思えます。

木津川市加茂文化財愛護会「文愛会だより」第43号(2016年8月28日発行)より
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